話題が盛りだくさんすぎて、あふれそうなほど充実した日々。
これが『村(ガマගම)』なんだなって感じたこと。
ひとつ。
インターネットのリチャージカードを買いたくて、いつも行く家の近くの店(カデーකඩේ)に行ったら日曜日で休み。
他の近くの店も休み。
ちょっと歩いてみようと歩いていると、いつものように村の人に声をかけられた。
『どこ行くの?』
『どうしたの?』
「Dialogのリチャージカードを買いたいんだけど、どこで買える?」
『この道をまっすぐ行って、旗のある交差点を左に曲がって行った店にあるよ。』
そのまっすぐ進む道を歩いていると、
肉屋のおじさん、
遊んでいる子どもたち、
暇してる人たち、
たーっくさんの人たちに同じ質問をされる。そして同じように教えてくれる。
交差点まで来て曲がるべき左の道を見ると、一変。
スラムと小さい店が交ざり合っていて、リチャージカードなんて売ってそうな場所ではなかった。
道はゴミだらけだった。
本当にこの道で合ってるのか?
シンハラ語の理解力が足りなかったのか。
まちがえた道を教えられたのか。
その道の先には、売ってそうな店がない気がしてしまい道を引き返してしまった。
引き返しているときも同じように声をかけられた。
『カードは買えた?』
「買えなかった。」
はじめに声かけて教えてくれたおじさんにもそう伝えた。
『店は見つけられた?』
「見つけられなかった。」
『どうして?』
「左に曲がっても店がなさそうで、戻ってきちゃった。」
『どうして?店はあるよ。道がわからなかった?』
「道はわかったよ、あそこを左に曲がるんでしょ?」
『そうだよ、わかってるのにどうして行かないの?』
売ってそうな店がなさそうだったって正直に言えなかった。
「んー。また明日買いに行くよ。近くの店に売ってるから。」
『曲がったところの店に売ってるって。途中まで連れてってくれるからおいで。』
結局、途中まで連れてってもらう流れになった。
本当に途中までで、旗のある交差点から半信半疑でゴミだらけの左の道に曲がった。
明らかにさっきいた道と雰囲気が違い、なんでここを外国人が1人で歩いてるんだ?と言わんばかりに日本人のわたしが余計に目立つ。
左右の細い路地を見ると、スラムだった。
わたしを見に路地からわざわざ出てくる人もいた。
マッタックリヤはタミル系ムスリム・カトリックが多く、スラムで暮らす人々もとても多い。
パッと見ると危ない道に見えるけど、人の雰囲気はすごくよくて笑顔であいさつを交わした。
少し歩いていくと、本当にリチャージカードの店があった。
カードも買えた。
教えてくれた人たちの言ったことは本当だったんだ。
半信半疑でいた自分に反省。そして親切にしてくれた人たちに感謝。
店を出て、道を引き返しているとまたたくさんの人たちに声をかけられた。
はじめに声をかけられた人以上のたくさんの人たちに声をかけられた。
わたしがカードを探しているということが、道にいる人たちにあっという間に伝わってたんだ。
『カードは買えた?』
「買えたよ。ありがとう。」
そう言うたびに、みーんな嬉しそうにほほえんでくれた。
わたしもその顔をみて嬉しくなった。
はじめに声をかけてくれたおじさんも、心配してくれてわたしが戻ってくるのを待っていてくれた。
一瞬のように、わたしが何をしているのか道にいる人たちに伝えていることには本当に驚いた。
だけど自分のことのように心配してくれて、喜んでくれて、そして笑顔を共有してくれて、そんな人たちの優しさに触れることができた1日だった。
マッタックリヤ、この村がもっと好きになった。
0 件のコメント:
コメントを投稿